産業のカテゴリ記事一覧

カテゴリ:産業

産業のカテゴリ記事一覧。昔、明光通りの一角に和歌浦口売店がありました。その息子(今はじじ!)の紀州<和歌山>四方山話と還暦過ぎて始めた「もしもドロップショッピング」のぐうたらな噺です。
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現在こそ、マットやリキッドと種類が豊富になったが、一昔前まで蚊取り器といえば、渦巻き形蚊取り線香と相場が決まっていた。では、いつごろから蚊取り線香は渦巻き形となったのであろうか。古くから「蚊遣り火」といって、煙によって害虫を追い払うことは行われていた。だが、植物に含まれている殺虫剤分を利用したわけではなかったため、あまり効果的とはいえなかった。近代に入り、明治18年(1885)旧ユーゴスラヴィアの...

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家庭用品といえば、ほうき・たわしといったもののほか、バスマット・風呂のふたなどのバス(風呂)用品、ブラシなどのトイレ用品に、スポンジ・しゃもじなどの台所用品とたくさんの種類の商品が思いつく。これらの家庭用品の多くは、少し前まで「和雑貨」とよばれていた商品類である。家庭用品は、ほうき・たわし・ローブなどの主力商品が、現在ではその大半が、ナイロンやビニールなどの化学素材で作られている。だが家庭用品は、...

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粉河酢は、粉河寺門前町の商人によって醸造、販売されていた。伝承では平安期の花山法皇が、粉河の水が酢醸造に適することを示し、製造法を伝えたとある。確かな史料では、近世初頭の徳川頼宣の時代の元和5~9年(1619~23)には御用酢になっていたとも、寛文年間(1661~73)に御用酢になったともされている。最も古い業者は室屋(八塚氏)で、元禄13年(1700)には同業組合である株仲間の規約が定められ、7...

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黒江漆器は、現在の海南市黒江で生産され、江戸時代に各地に製品が販売されたことから、その名が有名になった。その起源は、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めによって離散した根来寺の僧が根来塗の方法を伝えたという説と、それ以前の室町時代に紀州の木地師によって渋地椀が作られたのが始まりという説がある。いずれにしろ、寛永2年(1625)の「塗師中之帳」にはすでに40軒の塗師株が記され、同17年には80...

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江戸時代になると、紀州でも陶器の生産が始まった。幕末から明治初期にかけての数十年間が最盛であった。偕楽園焼は紀州藩10代藩主徳川治宝が有名な陶工を招いて別邸西浜御殿の庭で焼かせたもので、治宝や側近の人々の好みを強く反映している。大部分は楽焼で旦入・仁阿弥・弥介など陶工の作品とともに、治宝や側近の人々の作品が数多く残っている。治宝の作品には葵の紋が捺され、その他の人々のものには作者の個人銘と「偕楽園...

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蚊取り線香はどうして渦巻き形なのか?

現在こそ、マットやリキッドと種類が豊富になったが、一昔前まで蚊取り器といえば、渦巻き形蚊取り線香と相場が決まっていた。
では、いつごろから蚊取り線香は渦巻き形となったのであろうか。

古くから「蚊遣り火」といって、煙によって害虫を追い払うことは行われていた。

だが、植物に含まれている殺虫剤分を利用したわけではなかったため、あまり効果的とはいえなかった。

近代に入り、明治18年(1885)旧ユーゴスラヴィアのダルマチア地方を原産とする除虫菊が日本にもたらされた。

除虫菊は最初から蚊取り線香に利用されたのではなく、まず、欧米と同様に、ノミ取り粉として商品化されたのであった。

除虫菊を蚊取り線香として実用化したのが、有田出身の上山英一郎であった。

明治21年(1888)、折から上京していた上山英一郎は、本郷の石川屋旅館で偶然、線香屋の伊藤幹と同宿し、線香の中に除虫菊の粉を入れることを思いついて試作した。

ちなみに、蚊取り線香が緑色で「線香」と呼ばれる所以は、ここにある。

上山英一郎は、2年後の明治23年には、世界で最初の蚊取り線香の商品化に成功したのである。

ただこの蚊取り線香は、現在見られる渦巻き型ではなく、線香と同じ棒状であった。

蚊取り線香は画期的な商品だったが、いかんせん、線香と同じような商品であったため、40分程度しか効力がなかった。

また、細くて煙も少なかったために、改良が続けられた。

明治28年、上山英一郎の妻ゆきが、渦巻き形にすることを思いついたのである。

そして、苦労を重ねた末、明治33年(1900)現在でも使われている蚊取り線香と同じ形の、役7時間の効力を持つ渦巻き形蚊取り線香が、世に登場したのであった。

7時間という時間は、寝る前につければ明け方まで持つ時間である。これは画期的なことであった。
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日本一の棕櫚(しゅろ)の生産地と家庭用品の不思議な関係

家庭用品といえば、ほうき・たわしといったもののほか、バスマット・風呂のふたなどのバス(風呂)用品、ブラシなどのトイレ用品に、スポンジ・しゃもじなどの台所用品とたくさんの種類の商品が思いつく。

これらの家庭用品の多くは、少し前まで「和雑貨」とよばれていた商品類である。

家庭用品は、ほうき・たわし・ローブなどの主力商品が、現在ではその大半が、ナイロンやビニールなどの化学素材で作られている。

だが家庭用品は、以前は棕櫚の繊維で作られたものが多かった。棕櫚はヤシ科の常緑高木で、その幹の繊維が耐湿性に優れていることから、縄・たわし・ほうき・マットなど。水まわりの仕事の用品として、多用されたのである。

棕櫚はヤシ科の植物の中では比較的寒さに強く、本州中部までならば屋外で生育させることが可能なので、温暖な気候の和歌山県では、山間部にまで棕櫚が栽培され、
かつての家庭用品では日本一のシェアを誇っていたのであった。

棕櫚と密接な関係があるが家庭用品産業は、和歌山県下では、以前から海南から野上谷にかけての地域(海南市・紀美野町)を中心に、おもに生産されている。

現在では、中国をはじめとするアジア各国などから輸入品に押されてはいるものの、その出荷額は現在でも日本一を誇っている。

和歌山県産の棕櫚を原材料とする家庭用品の市場占有率は、国産品の中では現在でも圧倒的である。

棕櫚製品は、化学素材の製品に押されて、現在では姿を見かけてことが少なくなった。

しかし、現在でも、その耐久性を買われて、寺院の梵鐘をつるす縄など、意外と気づかないところに、縁の下の力持ちとして、棕櫚製品は使われているのである。

このように和歌山県産の棕櫚製品は、現在でも高い価値を持っており、平成16年(2004)、棕櫚箒は、和歌山県郷土伝統工芸品に指定された。
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「粉河酢」のブランドを守り通した粉河商人の気骨としたたかさ

粉河酢は、粉河寺門前町の商人によって醸造、販売されていた。伝承では平安期の花山法皇が、粉河の水が酢醸造に適することを示し、製造法を伝えたとある。

確かな史料では、近世初頭の徳川頼宣の時代の元和5~9年(1619~23)には御用酢になっていたとも、
寛文年間(1661~73)に御用酢になったともされている。最も古い業者は室屋(八塚氏)で、
元禄13年(1700)には同業組合である株仲間の規約が定められ、7軒が加入した。

この規約によれば、株仲間の決定は多数決によることを決めていた。
しかし、最古の室屋の力が強く、室屋の酢を江戸店で販売し、和歌山城下に借家をして店をだしていた。
この7軒の中にこの頃さらに2軒が加わり9軒となっていた。

その後、天保10年(1839)頃には業者は室屋・玉屋・糀屋3軒に減少していたことが「紀伊続風土記」に見える。

この時にも株仲間の規約が作成されている。

この規約によれば、3軒の間で相談の上で販売価格を定めること、販売先の協定と、価格のダンピングをして乱売をしないこと、
得意先」の取り合い競争をしないことなどを決めていた。

「紀伊続風土記」には、酢の品質は大変すぐれていると記している。
江戸後期には近隣の町や村々で酢が作られ、これを「粉河酢」と称して売る偽ブランド商品が出回った。

そこで、粉河の業者が株仲間の製造、販売の独占を図り、藩の専売品としての認可を請願していた。
これが、のちに認められて、安政元年(1854)に藩の手によって江戸への出荷が実現したという。

この時の業者は糀屋・玉屋・駒屋の3軒であった。

なお、藩は粉河酢の高値を指摘し、ダンピングをせよと命じたが、粉河の業者は粉河酢の品質保持や管理の努力を挙げて、これに反論して従わなかった。

これも粉河商人の気骨と、したたかさが表れていよう。

粉河酢の生産額は、寛政年間(1789~1801)を少し過ぎる頃には室屋だけで泉州米を原料に1500石前後の酢を生産していた。
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黒江漆器は、なぜ全国に販路を広げたのか?

黒江漆器は、現在の海南市黒江で生産され、江戸時代に各地に製品が販売されたことから、その名が有名になった。
その起源は、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めによって離散した根来寺の僧が根来塗の方法を伝えたという説と、それ以前の室町時代に紀州の木地師によって渋地椀が作られたのが始まりという説がある。

いずれにしろ、寛永2年(1625)の「塗師中之帳」にはすでに40軒の塗師株が記され、同17年には80軒に増えている。また、寛永15年に著された「毛吹草」に紀州の名物として「黒江渋地椀」の記事が見える。

17世紀後半には、有田郡箕島浦の商人が黒江で渋地椀や折敷類を仕入れて西国に売り歩いている。
このほか近世中期から黒江に多くの他国商人が漆器の仕入れに来ただけでなく、店舗を構えるものまでいた。

たとえば、伊予桜井の商人は黒江を訪れて漆器を仕入れ、これを椀舟と呼ばれる帆船に積み込み、四国・中国・九州地方に出かけて船を根城に漆器の行商を行っている。
その際、各藩の武士に紀伊大納言家の御産物を披露に参上したと挨拶してたので、桜井の商人は商業上の便宜を得たといわれる。

こうした漆器行商人が、その後、京坂・中京・関東・東北・北海道まで進出しているが、それにともなって黒江漆器は販路を拡大していくことになる。

「紀伊続風土記」によると、天保10年(1839)頃には、黒江の漆器が諸国に出回っていることが記され、黒江村の戸数1300余戸、人口4500余人で、
他国からの賃かせぎ職人が2000余人と記されている。

この記事から当時の黒江村がさながら町のように繁栄していたことがわかる。

明治維新後は輸出向けの生産にも手を広げ、明治12年(1879)から同16年には、黒江の生産高が全国漆器生産高の4分の1を占めるまでに発展した。
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偕楽園焼・瑞芝焼・男山焼 紀州の名陶の魅力は?

江戸時代になると、紀州でも陶器の生産が始まった。幕末から明治初期にかけての数十年間が最盛であった。

偕楽園焼は紀州藩10代藩主徳川治宝が有名な陶工を招いて別邸西浜御殿の庭で焼かせたもので、治宝や側近の人々の好みを強く反映している。

大部分は楽焼で旦入・仁阿弥・弥介など陶工の作品とともに、治宝や側近の人々の作品が数多く残っている。

治宝の作品には葵の紋が捺され、その他の人々のものには作者の個人銘と「偕楽園製」の丸印がよくみられる。

器種のほとんどは、茶碗・香合・蓋置などの茶器類である。

この偕楽園焼は御庭焼の代表的なものであるが、そのほかにも時代は少し下るが、西の丸焼・青寧軒焼などの藩主と関係の深い焼物もみられる。


瑞芝焼は、名草焼・鈴丸焼・滅法谷焼の別名を持つ民間経営の民窯であり、瑞芝焼といえば、青磁製品を特に有名である。

瑞芝焼は岡崎屋重次郎(姓・阪上、号・瑞芝)が焼いたもので、中国や日本各地の窯の写しのものを盛んに焼いているが、楽焼もみられ、製品は茶器から日用雑器に至るあらゆるものが焼かれている。


男山焼は御用窯に属するもので、紀州藩の殖産興業政策の一環で、崎山利兵衛が藩の援助と許可を得て文政10年(1827)に有田郡上中野(広川町)に開窯したもので約50年間続いて明治12年(1879)に廃絶した。

製品は、大部分が染付の日用雑器類で、無名のものが多いが、伝世している染付・青磁・こうち写・色絵などの製品には「南紀男山」・「男山」などの在銘のものもみられる。

では、なぜ近世文化最後の花が開いたこの頃、紀州において本格的なこれらの焼き物窯が築かれたのであろうか。

文化人大名である徳川治宝の好みや学術文化振興だけでなく、藩の殖産興業との関係であろうと考えられる。
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