2013年01月の記事一覧

月別アーカイブ:2013年01月

2013年01月の記事一覧。昔、明光通りの一角に和歌浦口売店がありました。その息子(今はじじ!)の紀州<和歌山>四方山話と還暦過ぎて始めた「もしもドロップショッピング」のぐうたらな噺です。

グルメ情報
概要梅生産量日本一を誇る和歌山県を代表する品種であり、日本国内で生産される国産梅の6割は和歌山県産である。果樹王国紀州和歌山のブランド梅であるだけでなく、梅のトップブランドとしてその名は知られている。果実は非常に大きく、種は果実のわりに小さめであり、果肉が厚くて柔らかいのが特徴。おもに梅干しや梅酒に加工される。和歌山県のみなべ町が発祥の地であり、かつ生産量も多い。2006年にみなべいなみ農業協同組合が...

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グルメ情報
南高梅の花(南部梅林)南高梅(なんこうばい、なんこううめ)とは、梅の品種のひとつ。主たる生産地が和歌山県の白梅で、その果実は最高級品とされる。2006年10月27日には地域団体商標制度の認定第一弾として、南高梅は地域ブランドとして認定されるに至った。読みは正式に「なんこううめ」であるが、生産地以外の人間やマスメディアでは「なんこうばい」と呼ばれる事もある。...

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産業
現在こそ、マットやリキッドと種類が豊富になったが、一昔前まで蚊取り器といえば、渦巻き形蚊取り線香と相場が決まっていた。では、いつごろから蚊取り線香は渦巻き形となったのであろうか。古くから「蚊遣り火」といって、煙によって害虫を追い払うことは行われていた。だが、植物に含まれている殺虫剤分を利用したわけではなかったため、あまり効果的とはいえなかった。近代に入り、明治18年(1885)旧ユーゴスラヴィアの...

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産業
家庭用品といえば、ほうき・たわしといったもののほか、バスマット・風呂のふたなどのバス(風呂)用品、ブラシなどのトイレ用品に、スポンジ・しゃもじなどの台所用品とたくさんの種類の商品が思いつく。これらの家庭用品の多くは、少し前まで「和雑貨」とよばれていた商品類である。家庭用品は、ほうき・たわし・ローブなどの主力商品が、現在ではその大半が、ナイロンやビニールなどの化学素材で作られている。だが家庭用品は、...

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産業
粉河酢は、粉河寺門前町の商人によって醸造、販売されていた。伝承では平安期の花山法皇が、粉河の水が酢醸造に適することを示し、製造法を伝えたとある。確かな史料では、近世初頭の徳川頼宣の時代の元和5~9年(1619~23)には御用酢になっていたとも、寛文年間(1661~73)に御用酢になったともされている。最も古い業者は室屋(八塚氏)で、元禄13年(1700)には同業組合である株仲間の規約が定められ、7...

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産業
黒江漆器は、現在の海南市黒江で生産され、江戸時代に各地に製品が販売されたことから、その名が有名になった。その起源は、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めによって離散した根来寺の僧が根来塗の方法を伝えたという説と、それ以前の室町時代に紀州の木地師によって渋地椀が作られたのが始まりという説がある。いずれにしろ、寛永2年(1625)の「塗師中之帳」にはすでに40軒の塗師株が記され、同17年には80...

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産業
江戸時代になると、紀州でも陶器の生産が始まった。幕末から明治初期にかけての数十年間が最盛であった。偕楽園焼は紀州藩10代藩主徳川治宝が有名な陶工を招いて別邸西浜御殿の庭で焼かせたもので、治宝や側近の人々の好みを強く反映している。大部分は楽焼で旦入・仁阿弥・弥介など陶工の作品とともに、治宝や側近の人々の作品が数多く残っている。治宝の作品には葵の紋が捺され、その他の人々のものには作者の個人銘と「偕楽園...

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産業
紀州備長炭は、他に類のない硬さと火持ちの良さをもって知られ、おもに焼き物料理の燃料として、うなぎのかば焼き、焼き肉、焼き魚などに使用されている。備長炭の原料は和歌山県の県木となっているほど紀州で多く産出されるウバネガシで、これを用いて白炭にする技術が元禄時代頃に生み出されたという。起源については、万治年間(1658~61)に日高郡高津尾(日高川町)の大津屋市右衛門が創業したとか、元禄年間(1688...

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産業
カツオ節は、大量に獲れた鰹の保存方法として考え出されたものである。寛永20年(1643)に紀伊水道を通過した廻船に印南・田辺・周参見からカツオ節が積み込まれて大坂・堺方面へ運ばれているし、同年には紀州藩から幕府へ延命酒漬けカツオ節が献上されている。このころすでに紀州のカツオ節が商品化していたことがうかがわれる。しかし、その製法は藁を焚いて干乾ししたもので、長期の保存は難しかったと思われる。印南(印...

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産業
9月には元禄と改元されることとなる貞享5年(1688)正月、上方の著名な浮世草子の作家であった井原西鶴が「日本永代蔵」を刊行した。その後2の4に「天狗は家名風車」と題する一文がある。タイトルだけでは、いったいどのような内容なのかは見当はつきにくいが、その話は太地の捕鯨に関するもので、概要は次のようなものである。紀州は「泰地」(太地)に「鯨突きの羽指の上手に天狗源内といへる人」がおり、「その丈33尋...

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産業
紀州は長い海岸線と天然の良港に恵まれ、早くから沿線漁業が行われていたが、元和年間(1615~24)には加太浦(和歌山市)の漁民が房総半島南部沿岸に出漁している。魚の中心はイワシ網漁で、春には房総半島に出稼ぎに行き、秋に帰国するのが一般的であったが、それらの中には帰らずに永住するものもあった。紀州の漁民は房総沿岸の各漁村に入港し、中高網や八手網などの方法でイワシ網漁を行い、現地に紀州の進んだ漁法を伝...

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産業
湯浅の名産である醤油の起源は、鎌倉時代に僧覚心(法燈国師)が宋から径山寺(金山寺)味噌の製法を伝えたことに始まる。覚心は建長元年(1249)に宋に渡って修行し、そのかたわら、径山寺味噌の製法を学んだ。帰国後、鎌倉幕府3代将軍源実朝の家臣かかつら山五郎かげとも(がんしょう)が実朝の菩提を弔うために健立していた西方寺(のちの興国寺)の開山として招かれ、西方寺を真言宗から臨済宗に改めた。西方寺に移り住ん...

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産業
紀州みかんは紀伊国屋文左衛門の名とともに有名であるが、その期限につては諸説がある。一説には永享年間(1429~41)に有田郡糸我壮(現有田市)に橘が自然に生育し、文正年間(1466~67)に、この種を山田に植え、やがて近郷に広まったという。慶長6年(1601)の検地帳によると、伊都郡の村々には数本ずつ、有田郡の村々では十数本から三十数本があったことが知られる。江戸に初めて出荷したのは寛永11年(1...

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9月には元禄と改元されることとなる貞享5年(1688)正月、上方の著名な浮世草子の作家であった井原西鶴が「日本永代蔵」を刊行した。その後2の4に「天狗は家名風車」と題する一文がある。タイトルだけでは、いったいどのような内容なのかは見当はつきにくいが、その話は太地の捕鯨に関するもので、概要は次のようなものである。紀州は「泰地」(太地)に「鯨突きの羽指の上手に天狗源内といへる人」がおり、「その丈33尋...

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産業
房総半島の漁場は、紀州の漁民が開拓した!紀州は長い海岸線と天然の良港に恵まれ、早くから沿線漁業が行われていたが、元和年間(1615~24)には加太浦(和歌山市)の漁民が房総半島南部沿岸に出漁している。魚の中心はイワシ網漁で、春には房総半島に出稼ぎに行き、秋に帰国するのが一般的であったが、それらの中には帰らずに永住するものもあった。紀州の漁民は房総沿岸の各漁村に入港し、中高網や八手網などの方法でイワ...

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湯浅の名産である醤油の起源は、鎌倉時代に僧覚心(法燈国師)が宋から径山寺(金山寺)味噌の製法を伝えたことに始まる。覚心は建長元年(1249)に宋に渡って修行し、そのかたわら、径山寺味噌の製法を学んだ。帰国後、鎌倉幕府3代将軍源実朝の家臣かかつら山五郎かげとも(がんしょう)が実朝の菩提を弔うために健立していた西方寺(のちの興国寺)の開山として招かれ、西方寺を真言宗から臨済宗に改めた。西方寺に移り住ん...

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紀州みかんは紀伊国屋文左衛門の名とともに有名であるが、その期限につては諸説がある。一説には永享年間(1429~41)に有田郡糸我壮(現有田市)に橘が自然に生育し、文正年間(1466~67)に、この種を山田に植え、やがて近郷に広まったという。慶長6年(1601)の検地帳によると、伊都郡の村々には数本ずつ、有田郡の村々では十数本から三十数本があったことが知られる。江戸に初めて出荷したのは寛永11年(1...

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紀州人
その他紀州のヒーロー<坂本冬美>上富田町出身の演歌歌手。「あばれ太鼓」「祝い酒」「夜桜お七」「また君に恋してる」などのヒット曲多数。。NHK紅白歌合戦出場回数は24回を数える。和歌山県ふるさと大使としても活躍しています。<田中3きょうだい>和歌山市出身の体操選手。長男の和仁選手、長女の理恵選手、次男の佑典選手の3人揃って、2012年のロンドン五輪に出場し、和仁、佑典両選手は団体戦で銀を獲得。<徳川...

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紀州人
こんな人もいた紀州の偉人たち②<髙城武夫>(1909~1982)1959年に私費を投じて和歌山市鷹匠町に県内初のプラネタリウム施設「和歌山天文館」を建設。苦労を重ね、日本初の本格的オルガンを製造し、その量産化に成功した。84年の閉館まで15万人を集めたほか、天文教具の開発に尽力した。<保田龍門>(1891~1965)東京美術学校在学中に二科展入選。日本美術の研究所で彫刻を勉強し、のちに欧米に遊学。...

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紀州人
紀州人の名言:「内外合一(ないがいごういつ) 活物窮理(かつぶつきゅうり)」「内外合一」は、病気とは内科的なもと外科的なものが一体となったもので、専門にこだわらず幅広い知識を持たなければ病気を正確に理解できず適切な治療がが出来ないとの青洲の医療観を表す。また、「活物窮理」は、「昔からの習わしや他人の知識、経験を過信して治療することを厳しく戒め、個性や特質が異なる患者をよく観察し、病気の原因や本質を...

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紀州人
紀州人の名言:「是れ此の築堤の工を起こして住民百世の安堵を図る所似なり」安政大地震(1854年)で愛する故郷の広村(現広川町)が大きな被害を受け、村人の安全と幸福を永久に守るよう、築堤にかけた決意の言葉。大地震と津波により、生きる希望を失い、村を出て行こうとする人が続出した。住民参加の堤防造りは、村人に仕事と生きる力、勇気を与えた。「作業には子どもからお年寄りまで参加し、住民間の助け合いが生まれた...

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紀州人
紀州人の名言:「人より少し苦労して人より多くの利益を得んとするは、所謂薄志弱行(いわゆるはくしじゃこう)の徒(いたずら)の所為(しょい)たり」「此の念一回(ほうき)すれば、必ず生涯不愉快の境遇に陥るべす」と続き、「人より少ない苦労で人より多くの利益を得ようとすることは、意志が弱く行動力が乏しいからである。このような思いが芽生えれば、生涯必ず不愉快な思いをするだろう」との意味。北京に赴任する外交官の...

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紀州人
こんな人たちもいた紀州の偉人たち<山葉寅楠>(1851~1916)和歌山市生まれ。苦労を重ね、日本初の本格的オルガンを製造し、その量産化に成功した。1889年に日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)を立ち上げた。<山田猪三郎>(1863~1913)ノルマントン号事件を機に救命具の研究を始め、その経験を生かし気球製作を始めた。1910年に国産初の有人飛行船を完成させた。和歌浦の高津子山に顕彰碑が残...

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紀州人
紀州人の名言:「人の交わりにも季節あり」「熊楠の性格がよく現れた言葉です」ロンドン留学時代から親交のあった孫文が辛亥革命で中華民国大総統になり、来日した際、孫文に会いに行かなかったことについて、1925年の弟子の上松(しげる)宛ての書状に記した。孫文は熊楠に「知音」(ちいん)と最もわかり合える相手に向ける言葉を贈るほどの仲だった。「困っているならとかく、本当の友なら相手が偉くなったからと今更会いに...

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紀州人
紀州人の名言:「青春は誰にとっても一度しかない」数多くの名言を残す西本さん。「努力すれば野球の方から受け止めてくれる。野球は人間の努力や工夫を忠実に反映してくれる」と地道な努力を重んじた。今回あげたのは人間味あふれる一面がうかがえる名言。1973年11月、近鉄バファローズの監督就任時に語った青春論で、この言葉の後には、「しかも限られた時間しかない。近鉄のユニフォームを着た青春の証として何とか悔いの...

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紀州人
紀州人の名言:「好景気良し、不景気、なお良し」「好景気ならだれでもそこそこの経営はできる。不景気も見方を変えればチャンスにつながる」との意味の言葉から、”経営の神様”の不屈の精神がうかがえる。数々の名言があるが「これは、どの企業にも当てはまる万国共通の名言」「経済が冷えた世の中でこそ、企業の原点に立ち返り、何ができるかを考え、態勢を整える機会ととらえることが大事との教えです。松下電器でも、大きな変革...

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紀州人
紀伊の国は、木材などの山林資源を始め、河川や海からの漁業資源にも恵まれている。そのため河川を利用した山産物などの物資の輸送、さらには船舶を利用した各地との交流は古くから盛んで、江戸時代にはイワシ漁師が瀬戸内や関東地方など他国へ出漁して魚場を開拓し、また捕鯨のために遠く五島列島まで出向いている。このほか、箕島浦の商人が黒江で渋地椀や折敷類を仕入れて瀬戸内海から北九州に出向いて販売し、帰りに有田焼の陶...

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紀州どんなとこ?
紀伊の国はまた、長い海岸線を有するがゆえに、古くから造船や操船の技術に優れ、大陸からの文化を受容するなど海の道を通じて交流してきた。豊臣秀吉が紀州を平定した意味は、単に大坂に近い足元を固めたというだけでなく、紀州の豊富な木材と、造船能力、操船技術を持つ人員の確保など、物資の輸送力と海上戦略を掌握するということにあったといえよう。その結果として、紀州を制圧した後に直ちに四国の長宗我部氏を攻撃して平定...

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紀州どんなとこ?
今日は、紀ノ川の話をします。紀ノ川は、奈良県の大台ケ原を源として約136キロメートルを流れて紀伊水道に注ぎ、奈良県内では吉野川、和歌山県内では紀ノ川と呼ばれている。寛永8年(16319に紀州藩は積み荷や旅客が大和に直行することを禁じ、橋本町(原橋本市)舟改番所を設けて直行便を取り締まった。そのため、上り荷は橋本で荷揚げして陸路で五条(奈良県)方面に運び、逆に吉野川の下り荷は五条で荷揚げし、橋本で舟...

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紀州どんなとこ?
紀伊の国は、紀伊半島の西部から南東部の海岸にかけて半島の中心部を囲むような形をしている。その中心部に位置する紀伊山地は、東西の山脈と南北の山脈が合わさった山地で、これらの山々をぬって紀ノ川、有田川、日高川が西に、富田川、古座川、熊野川が南に向かって流れている。県域は大きく紀北・紀中・紀南の三地域に分けられ、  紀北:紀ノ川・有田川流域  紀中:日高川・南部川流域  紀南:田辺以南のむろ地域紀伊の国...

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南高梅 概要

紀州南高梅2

概要

梅生産量日本一を誇る和歌山県を代表する品種であり、日本国内で生産される国産梅の6割は和歌山県産である。

果樹王国紀州和歌山のブランド梅であるだけでなく、梅のトップブランドとしてその名は知られている。

果実は非常に大きく、種は果実のわりに小さめであり、果肉が厚くて柔らかいのが特徴。

おもに梅干しや梅酒に加工される。

和歌山県のみなべ町が発祥の地であり、かつ生産量も多い。

2006年にみなべいなみ農業協同組合が地域団体商標制度による

商標登録に「紀州みなべの南高梅」を出願し、同年特許庁より認定された。
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南高梅の花(南部梅林)

紀州南高梅2

南高梅の花(南部梅林)

南高梅(なんこうばい、なんこううめ)とは、梅の品種のひとつ。

主たる生産地が和歌山県の白梅で、その果実は最高級品とされる。

2006年10月27日には地域団体商標制度の認定第一弾として、南高梅は地域ブランドとして認定されるに至った。

読みは正式に「なんこううめ」であるが、

生産地以外の人間やマスメディアでは「なんこうばい」と呼ばれる事もある。
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蚊取り線香はどうして渦巻き形なのか?

現在こそ、マットやリキッドと種類が豊富になったが、一昔前まで蚊取り器といえば、渦巻き形蚊取り線香と相場が決まっていた。
では、いつごろから蚊取り線香は渦巻き形となったのであろうか。

古くから「蚊遣り火」といって、煙によって害虫を追い払うことは行われていた。

だが、植物に含まれている殺虫剤分を利用したわけではなかったため、あまり効果的とはいえなかった。

近代に入り、明治18年(1885)旧ユーゴスラヴィアのダルマチア地方を原産とする除虫菊が日本にもたらされた。

除虫菊は最初から蚊取り線香に利用されたのではなく、まず、欧米と同様に、ノミ取り粉として商品化されたのであった。

除虫菊を蚊取り線香として実用化したのが、有田出身の上山英一郎であった。

明治21年(1888)、折から上京していた上山英一郎は、本郷の石川屋旅館で偶然、線香屋の伊藤幹と同宿し、線香の中に除虫菊の粉を入れることを思いついて試作した。

ちなみに、蚊取り線香が緑色で「線香」と呼ばれる所以は、ここにある。

上山英一郎は、2年後の明治23年には、世界で最初の蚊取り線香の商品化に成功したのである。

ただこの蚊取り線香は、現在見られる渦巻き型ではなく、線香と同じ棒状であった。

蚊取り線香は画期的な商品だったが、いかんせん、線香と同じような商品であったため、40分程度しか効力がなかった。

また、細くて煙も少なかったために、改良が続けられた。

明治28年、上山英一郎の妻ゆきが、渦巻き形にすることを思いついたのである。

そして、苦労を重ねた末、明治33年(1900)現在でも使われている蚊取り線香と同じ形の、役7時間の効力を持つ渦巻き形蚊取り線香が、世に登場したのであった。

7時間という時間は、寝る前につければ明け方まで持つ時間である。これは画期的なことであった。
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日本一の棕櫚(しゅろ)の生産地と家庭用品の不思議な関係

家庭用品といえば、ほうき・たわしといったもののほか、バスマット・風呂のふたなどのバス(風呂)用品、ブラシなどのトイレ用品に、スポンジ・しゃもじなどの台所用品とたくさんの種類の商品が思いつく。

これらの家庭用品の多くは、少し前まで「和雑貨」とよばれていた商品類である。

家庭用品は、ほうき・たわし・ローブなどの主力商品が、現在ではその大半が、ナイロンやビニールなどの化学素材で作られている。

だが家庭用品は、以前は棕櫚の繊維で作られたものが多かった。棕櫚はヤシ科の常緑高木で、その幹の繊維が耐湿性に優れていることから、縄・たわし・ほうき・マットなど。水まわりの仕事の用品として、多用されたのである。

棕櫚はヤシ科の植物の中では比較的寒さに強く、本州中部までならば屋外で生育させることが可能なので、温暖な気候の和歌山県では、山間部にまで棕櫚が栽培され、
かつての家庭用品では日本一のシェアを誇っていたのであった。

棕櫚と密接な関係があるが家庭用品産業は、和歌山県下では、以前から海南から野上谷にかけての地域(海南市・紀美野町)を中心に、おもに生産されている。

現在では、中国をはじめとするアジア各国などから輸入品に押されてはいるものの、その出荷額は現在でも日本一を誇っている。

和歌山県産の棕櫚を原材料とする家庭用品の市場占有率は、国産品の中では現在でも圧倒的である。

棕櫚製品は、化学素材の製品に押されて、現在では姿を見かけてことが少なくなった。

しかし、現在でも、その耐久性を買われて、寺院の梵鐘をつるす縄など、意外と気づかないところに、縁の下の力持ちとして、棕櫚製品は使われているのである。

このように和歌山県産の棕櫚製品は、現在でも高い価値を持っており、平成16年(2004)、棕櫚箒は、和歌山県郷土伝統工芸品に指定された。
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「粉河酢」のブランドを守り通した粉河商人の気骨としたたかさ

粉河酢は、粉河寺門前町の商人によって醸造、販売されていた。伝承では平安期の花山法皇が、粉河の水が酢醸造に適することを示し、製造法を伝えたとある。

確かな史料では、近世初頭の徳川頼宣の時代の元和5~9年(1619~23)には御用酢になっていたとも、
寛文年間(1661~73)に御用酢になったともされている。最も古い業者は室屋(八塚氏)で、
元禄13年(1700)には同業組合である株仲間の規約が定められ、7軒が加入した。

この規約によれば、株仲間の決定は多数決によることを決めていた。
しかし、最古の室屋の力が強く、室屋の酢を江戸店で販売し、和歌山城下に借家をして店をだしていた。
この7軒の中にこの頃さらに2軒が加わり9軒となっていた。

その後、天保10年(1839)頃には業者は室屋・玉屋・糀屋3軒に減少していたことが「紀伊続風土記」に見える。

この時にも株仲間の規約が作成されている。

この規約によれば、3軒の間で相談の上で販売価格を定めること、販売先の協定と、価格のダンピングをして乱売をしないこと、
得意先」の取り合い競争をしないことなどを決めていた。

「紀伊続風土記」には、酢の品質は大変すぐれていると記している。
江戸後期には近隣の町や村々で酢が作られ、これを「粉河酢」と称して売る偽ブランド商品が出回った。

そこで、粉河の業者が株仲間の製造、販売の独占を図り、藩の専売品としての認可を請願していた。
これが、のちに認められて、安政元年(1854)に藩の手によって江戸への出荷が実現したという。

この時の業者は糀屋・玉屋・駒屋の3軒であった。

なお、藩は粉河酢の高値を指摘し、ダンピングをせよと命じたが、粉河の業者は粉河酢の品質保持や管理の努力を挙げて、これに反論して従わなかった。

これも粉河商人の気骨と、したたかさが表れていよう。

粉河酢の生産額は、寛政年間(1789~1801)を少し過ぎる頃には室屋だけで泉州米を原料に1500石前後の酢を生産していた。
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黒江漆器は、なぜ全国に販路を広げたのか?

黒江漆器は、現在の海南市黒江で生産され、江戸時代に各地に製品が販売されたことから、その名が有名になった。
その起源は、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めによって離散した根来寺の僧が根来塗の方法を伝えたという説と、それ以前の室町時代に紀州の木地師によって渋地椀が作られたのが始まりという説がある。

いずれにしろ、寛永2年(1625)の「塗師中之帳」にはすでに40軒の塗師株が記され、同17年には80軒に増えている。また、寛永15年に著された「毛吹草」に紀州の名物として「黒江渋地椀」の記事が見える。

17世紀後半には、有田郡箕島浦の商人が黒江で渋地椀や折敷類を仕入れて西国に売り歩いている。
このほか近世中期から黒江に多くの他国商人が漆器の仕入れに来ただけでなく、店舗を構えるものまでいた。

たとえば、伊予桜井の商人は黒江を訪れて漆器を仕入れ、これを椀舟と呼ばれる帆船に積み込み、四国・中国・九州地方に出かけて船を根城に漆器の行商を行っている。
その際、各藩の武士に紀伊大納言家の御産物を披露に参上したと挨拶してたので、桜井の商人は商業上の便宜を得たといわれる。

こうした漆器行商人が、その後、京坂・中京・関東・東北・北海道まで進出しているが、それにともなって黒江漆器は販路を拡大していくことになる。

「紀伊続風土記」によると、天保10年(1839)頃には、黒江の漆器が諸国に出回っていることが記され、黒江村の戸数1300余戸、人口4500余人で、
他国からの賃かせぎ職人が2000余人と記されている。

この記事から当時の黒江村がさながら町のように繁栄していたことがわかる。

明治維新後は輸出向けの生産にも手を広げ、明治12年(1879)から同16年には、黒江の生産高が全国漆器生産高の4分の1を占めるまでに発展した。
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偕楽園焼・瑞芝焼・男山焼 紀州の名陶の魅力は?

江戸時代になると、紀州でも陶器の生産が始まった。幕末から明治初期にかけての数十年間が最盛であった。

偕楽園焼は紀州藩10代藩主徳川治宝が有名な陶工を招いて別邸西浜御殿の庭で焼かせたもので、治宝や側近の人々の好みを強く反映している。

大部分は楽焼で旦入・仁阿弥・弥介など陶工の作品とともに、治宝や側近の人々の作品が数多く残っている。

治宝の作品には葵の紋が捺され、その他の人々のものには作者の個人銘と「偕楽園製」の丸印がよくみられる。

器種のほとんどは、茶碗・香合・蓋置などの茶器類である。

この偕楽園焼は御庭焼の代表的なものであるが、そのほかにも時代は少し下るが、西の丸焼・青寧軒焼などの藩主と関係の深い焼物もみられる。


瑞芝焼は、名草焼・鈴丸焼・滅法谷焼の別名を持つ民間経営の民窯であり、瑞芝焼といえば、青磁製品を特に有名である。

瑞芝焼は岡崎屋重次郎(姓・阪上、号・瑞芝)が焼いたもので、中国や日本各地の窯の写しのものを盛んに焼いているが、楽焼もみられ、製品は茶器から日用雑器に至るあらゆるものが焼かれている。


男山焼は御用窯に属するもので、紀州藩の殖産興業政策の一環で、崎山利兵衛が藩の援助と許可を得て文政10年(1827)に有田郡上中野(広川町)に開窯したもので約50年間続いて明治12年(1879)に廃絶した。

製品は、大部分が染付の日用雑器類で、無名のものが多いが、伝世している染付・青磁・こうち写・色絵などの製品には「南紀男山」・「男山」などの在銘のものもみられる。

では、なぜ近世文化最後の花が開いたこの頃、紀州において本格的なこれらの焼き物窯が築かれたのであろうか。

文化人大名である徳川治宝の好みや学術文化振興だけでなく、藩の殖産興業との関係であろうと考えられる。
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なぜ紀州備長炭と呼ばれたのか?

紀州備長炭は、他に類のない硬さと火持ちの良さをもって知られ、おもに焼き物料理の燃料として、うなぎのかば焼き、焼き肉、焼き魚などに使用されている。

備長炭の原料は和歌山県の県木となっているほど紀州で多く産出されるウバネガシで、これを用いて白炭にする技術が元禄時代頃に生み出されたという。

起源については、万治年間(1658~61)に日高郡高津尾(日高川町)の大津屋市右衛門が創業したとか、
元禄年間(1688~1704)に田辺の炭問屋備中屋長左衛門の名が付けられたとかいわれるものの、
史料がないため証明できない。

しかし、備長炭の名の由来は、恐らく前述の田辺の炭問屋備中屋長左衛門が、備中屋の「備」と長左衛門の「長」の字を組み合わせて江戸に送り出す商品名にしたことから始まると推測される。

長左衛門は、享保15年(1730)から安政元年(1854)までの間に4代の長左衛門が確認され、その分家は江戸で大坂屋と称して木炭を販売していた。

長左衛門の備長炭は、その硬さと火持ちの良さから江戸で大評判を得た。
そのため、各藩も備長炭に注目し、その製炭技術を学ぼうとしたが、紀州藩は特産物として国益を守るために、この技術を門外不出とした。

しかし、安政3年に薩摩藩が山元藤助らを紀州に送り、製炭技術を学ばせている。

この時の記録が宮崎市の山元家に保存され、江戸時代の備長炭を記した貴重な資料となっている。

明治時代になると、備長炭の技術を学んだ地域では、土佐備長炭、日向備長炭など出現してきたため、本家紀州において紀州備長炭と称するようになったが、その名声は今も全国にとどろいている。
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天然の調味料・カツオ節を発明したのは紀州人?

カツオ節は、大量に獲れた鰹の保存方法として考え出されたものである。寛永20年(1643)に
紀伊水道を通過した廻船に印南・田辺・周参見からカツオ節が積み込まれて大坂・堺方面へ運ばれているし、
同年には紀州藩から幕府へ延命酒漬けカツオ節が献上されている。

このころすでに紀州のカツオ節が商品化していたことがうかがわれる。
しかし、その製法は藁を焚いて干乾ししたもので、長期の保存は難しかったと思われる。

印南(印南町)の甚太郎は、腐りやすい初夏から秋にかけて大量に釣れる鰹を、いかに長く保存できるか、遠くの地へ送れるかを考え続けた人であった。

その遺志は2台目甚太郎に受け継がれ、延宝2年(1674)にクンカン法と呼ばれる技術を用い、長期保存が効く本格的なカツオ節が発明された。

彼が考え出したカツオ節の製造法とは、鰹を背割りにしたものを籠に並べて釜で蒸し、小骨を抜いて炊き、納屋と呼ばれる炉で乾かし、
さらに、あぶりいぶす作業を繰り返して、そのあと、カビ付けして日光で乾かすものであった。

これまでは多く副食に用いられたカツオ節は、このようにして本格的な調味料となった。

甚太郎は土佐から故郷の印南に帰り、この製法を土地の者にも教えたが、秘法ということで土佐。紀伊の一部から広がらなかった。

18世紀の終わり頃になって、同じ印南浦の与一が安房・伊豆にも伝え、やがて全国に伝播して日本人の味として、こよなく愛され、用いられるようになった。

カツオ節は当て字であるが「勝魚」につながる縁起物として用いられているし、長期の保存が利く天然調味料の一つとして人々の日常生活には欠かせないものである。

さらに江戸時代においては、これも当て字であるが「勝魚武士」に通じていることから武士たちからは大いにこのまれた品である。
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井原西鶴も太地の捕鯨に注目していた!

9月には元禄と改元されることとなる貞享5年(1688)正月、上方の著名な浮世草子の作家であった井原西鶴が「日本永代蔵」を刊行した。
その後2の4に「天狗は家名風車」と題する一文がある。
タイトルだけでは、いったいどのような内容なのかは見当はつきにくいが、その話は太地の捕鯨に関するもので、概要は次のようなものである。

紀州は「泰地」(太地)に「鯨突きの羽指の上手に天狗源内といへる人」がおり、「その丈33尋2尺6寸」(約60メートル)の、前代未聞の大きさの背見鯨を仕留めた。

この地では、”鯨一頭捕らえられば七郷の賑わい”といわれ、その諺のとおり、近隣の村は繁栄した。

近年、源内は「鯨網を拵へ」たので「見付け次第に取り損じる事」がなくなり、今では「浦々」で、これを使うようになった。

そして、昔は浜辺の粗末な家に住んでいた源内が「檜木造りの」屋敷に住み、「2百余人の猟師(漁師)をかかへ、舟ばかりも80艘」をもって、
「楠木分限」と呼ばれる大金持ちになったという。

文豪井原西鶴が題材に取り上げるほど、江戸時代、太地は捕鯨で栄えたのであった。
太地(太地町)など江戸時代に紀伊半島沿岸で行われた捕鯨は、最初は銛を使用した突取法であった。

延宝5年(1677)、秋田角右衛門らが網を併用する網取法を開発し、これによって突取法では捕鯨できなかった大型の鯨を獲ることが可能になったのである。
西鶴はこのことを描いたのであった。

太地は、紀伊半島の東南部に位置している。
この地は黒潮に乗って回遊する魚が多く、加えて、山がいきなり海に面していて沿岸部でも水深いため、鯨などの大型の海洋生物が比較的近くに寄ってくるので、
捕鯨には適した土地であった。

沿岸捕鯨で繁栄した太地も、19世紀に入ると、欧米諸国の捕鯨船が、はるか沖合いで近代的な方法を使って次々と鯨を獲るようになったため、
鯨の姿を見せなくなり、衰退したのであった。
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房総半島の漁場は、紀州の漁民が開拓した!

紀州は長い海岸線と天然の良港に恵まれ、早くから沿線漁業が行われていたが、元和年間(1615~24)には加太浦(和歌山市)の漁民が房総半島南部沿岸に出漁している。

魚の中心はイワシ網漁で、春には房総半島に出稼ぎに行き、秋に帰国するのが一般的であったが、
それらの中には帰らずに永住するものもあった。

紀州の漁民は房総沿岸の各漁村に入港し、中高網や八手網などの方法でイワシ網漁を行い、現地に紀州の進んだ漁法を伝えた。
彼らは漁港の整備費や漁獲物の干場の使用料などを支払うことによって漁の許可を得ていた。

関東に出漁した漁民の状況を享保年間を例に見ると、享保11年(1726)に日高郡津久野浦(日高町)の漁民75人が常陸国(茨城県)常陸原へ、同18年に加太浦の漁民28人が安房の各村へ出漁し、
同19年には塩津・栖原・湯浅の三浦の漁民384人が安房国天津小湊(千葉県鴨川市)に出稼ぎに行っている。

紀州の漁民は、すぐれた技術によって大量のイワシを収穫し、肥料となる干しかの増産に貢献した。
この収益に目を付けた紀州藩は、享保18年に関東出漁の漁民に対して5000両の御用金を課している。

なお、紀州の出漁民である有田郡出身の 原屋角兵衛は、江戸に進出して干しかなどの漁獲物だけでなく、熊野材などの紀州藩の木材、薪炭を扱って成功し、幕府との関係を深めて蝦夷(北海道)のニシン漁場をも開拓している。

このようなに、房総半島に出漁した紀州の漁民の中には、100万都市江戸が近いことから、漁業以外の分野でも活躍した人々もいた。

ちなみに銚子は、有田郡広村(現広川町)の崎山次郎右衛門が、明暦2年(1656)に外川に港と町を建設し、多くの紀州人が住みついたため、紀州人がつくった町ともいわれている。
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湯浅が醤油発祥の地といわれる理由

湯浅の名産である醤油の起源は、鎌倉時代に僧覚心(法燈国師)が宋から径山寺(金山寺)味噌の製法を伝えたことに始まる。

覚心は建長元年(1249)に宋に渡って修行し、そのかたわら、径山寺味噌の製法を学んだ。
帰国後、鎌倉幕府3代将軍源実朝の家臣かかつら山五郎かげとも(がんしょう)が実朝の菩提を弔うために健立していた西方寺(のちの興国寺)の開山として招かれ、
西方寺を真言宗から臨済宗に改めた。

西方寺に移り住んだ覚心は、宋で習った径山寺味噌を製造したが、その折に沈殿する汁が調味料として最適であることを発見した。
これが醤油の起源であるという。

この話は多分に伝説的で、正確な史料があるわけではないが、湯浅が日本で最も古い醤油製造地の一つであることは確かである。

江戸時代になると、湯浅醤油の名声が高まり、販売網も拡大されていった。
湯浅村(現湯浅町)と広村(現広川町)には数十名の醤油生産者がいた。
紀州藩では早くから湯浅醤油に着目し、藩の専売品として御仕入方役所が取り扱った。
これにより、湯浅醤油は藩の保護と統制のもとに発展し、代金不払いの際には藩が徴収し、
各地の御仕入方役所も販路の拡張に尽力した。

享保年間(1716~36)には湯浅組広村の浜口儀兵衛・岩崎重次郎らが、大消費都市である江戸に目を付け、
下総(千葉県)の銚子で醤油を製造するようになった。
こうして湯浅醤油は京都や大坂をはじめ、各地にその名を知られるようになった。

なかでも京都では、文化13年(1816)以降、「他国醤油売問屋」の統制を受けることなく、
紀州の国産醤油として自由に販売できた。
それは、御三家紀州藩の専売品であったたらであるが、それに加えて品質も良かったため、各地に販路を広げ、好評を得た、
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なぜ紀州みかんは、江戸市場をせいしたのか?

紀州みかんは紀伊国屋文左衛門の名とともに有名であるが、その期限につては諸説がある。
一説には永享年間(1429~41)に有田郡糸我壮(現有田市)に橘が自然に生育し、
文正年間(1466~67)に、この種を山田に植え、やがて近郷に広まったという。
慶長6年(1601)の検地帳によると、伊都郡の村々には数本ずつ、
有田郡の村々では十数本から三十数本があったことが知られる。

江戸に初めて出荷したのは寛永11年(1634)に有田郡滝川原村(現有田市)の藤兵衛がみかん400籠を贈ったことに始まる。
当時の江戸には伊豆・駿河・三河・上総からみかんが送られていたが、有田みかんは最も評判が良かった。
それは有田みかんが甘さと酸味を兼ね、色も形も群を抜いていたためであった。

そのため、翌年には2000籠を送り、みかんの栽培は有田郡や海部郡にも広がり、明暦2年(1656)には5万籠、
元禄年間(1688~1704)には30万籠、享保年間(1716~36)には50万籠が江戸に送られるまでになった。

江戸への出荷量増加により、販売方法が組織化され、生産地の各村では組株を設け、有田郡河口の北湊に集荷し、
ここに藩の蜜柑方会所を置いて統制した。
また、みかんの代金には藩の為替方を通じて蜜柑方に送られ、そこから荷親を通じて生産者に渡された。
このように紀州のみかんは、紀州藩の保護と統制のもとで特権を与えられ、紀州の蜜柑船に他国の船は航路を譲り、
荷揚場では紀州家御用の大提灯が立てられていたという。

紀州みかんは、他地方のみかんと比べて品質が良く、美味で有るうえに藩の力を背景に全国的に発展し、
”沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国蜜柑船”とうたわれるまでになった。
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井原西鶴も太地の捕鯨に注目していた!

9月には元禄と改元されることとなる貞享5年(1688)正月、上方の著名な浮世草子の作家であった井原西鶴が「日本永代蔵」を刊行した。

その後2の4に「天狗は家名風車」と題する一文がある。
タイトルだけでは、いったいどのような内容なのかは見当はつきにくいが、その話は太地の捕鯨に関するもので、概要は次のようなものである。

紀州は「泰地」(太地)に「鯨突きの羽指の上手に天狗源内といへる人」がおり、「その丈33尋2尺6寸」(約60メートル)の、前代未聞の大きさの背見鯨を仕留めた。

この地では、”鯨一頭捕らえられば七郷の賑わい”といわれ、その諺のとおり、近隣の村は繁栄した。

近年、源内は「鯨網を拵へ」たので「見付け次第に取り損じる事」がなくなり、今では「浦々」で、これを使うようになった。

そして、昔は浜辺の粗末な家に住んでいた源内が「檜木造りの」屋敷に住み、「2百余人の猟師(漁師)をかかへ、舟ばかりも80艘」をもって、
「楠木分限」と呼ばれる大金持ちになったという。

文豪井原西鶴が題材に取り上げるほど、江戸時代、太地は捕鯨で栄えたのであった。
太地(太地町)など江戸時代に紀伊半島沿岸で行われた捕鯨は、最初は銛を使用した突取法であった。

延宝5年(1677)、秋田角右衛門らが網を併用する網取法を開発し、これによって突取法では捕鯨できなかった大型の鯨を獲ることが可能になったのである。
西鶴はこのことを描いたのであった。

太地は、紀伊半島の東南部に位置している。
この地は黒潮に乗って回遊する魚が多く、加えて、山がいきなり海に面していて沿岸部でも水深いため、鯨などの大型の海洋生物が比較的近くに寄ってくるので、
捕鯨には適した土地であった。

沿岸捕鯨で繁栄した太地も、19世紀に入ると、欧米諸国の捕鯨船が、はるか沖合いで近代的な方法を使って次々と鯨を獲るようになったため、
鯨の姿を見せなくなり、衰退したのであった。
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房総半島の漁場は、紀州の漁民が開拓した!

房総半島の漁場は、紀州の漁民が開拓した!

紀州は長い海岸線と天然の良港に恵まれ、早くから沿線漁業が行われていたが、元和年間(1615~24)には加太浦(和歌山市)の漁民が房総半島南部沿岸に出漁している。

魚の中心はイワシ網漁で、春には房総半島に出稼ぎに行き、秋に帰国するのが一般的であったが、
それらの中には帰らずに永住するものもあった。

紀州の漁民は房総沿岸の各漁村に入港し、中高網や八手網などの方法でイワシ網漁を行い、現地に紀州の進んだ漁法を伝えた。
彼らは漁港の整備費や漁獲物の干場の使用料などを支払うことによって漁の許可を得ていた。

関東に出漁した漁民の状況を享保年間を例に見ると、享保11年(1726)に日高郡津久野浦(日高町)の漁民75人が常陸国(茨城県)常陸原へ、同18年に加太浦の漁民28人が安房の各村へ出漁し、
同19年には塩津・栖原・湯浅の三浦の漁民384人が安房国天津小湊(千葉県鴨川市)に出稼ぎに行っている。

紀州の漁民は、すぐれた技術によって大量のイワシを収穫し、肥料となる干しかの増産に貢献した。
この収益に目を付けた紀州藩は、享保18年に関東出漁の漁民に対して5000両の御用金を課している。

なお、紀州の出漁民である有田郡出身の 原屋角兵衛は、江戸に進出して干しかなどの漁獲物だけでなく、熊野材などの紀州藩の木材、薪炭を扱って成功し、幕府との関係を深めて蝦夷(北海道)のニシン漁場をも開拓している。

このようなに、房総半島に出漁した紀州の漁民の中には、100万都市江戸が近いことから、漁業以外の分野でも活躍した人々もいた。

ちなみに銚子は、有田郡広村(現広川町)の崎山次郎右衛門が、明暦2年(1656)に外川に港と町を建設し、多くの紀州人が住みついたため、紀州人がつくった町ともいわれている。
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湯浅が醤油発祥の地といわれる理由

湯浅の名産である醤油の起源は、鎌倉時代に僧覚心(法燈国師)が宋から径山寺(金山寺)味噌の製法を伝えたことに始まる。

覚心は建長元年(1249)に宋に渡って修行し、そのかたわら、径山寺味噌の製法を学んだ。
帰国後、鎌倉幕府3代将軍源実朝の家臣かかつら山五郎かげとも(がんしょう)が実朝の菩提を弔うために健立していた西方寺(のちの興国寺)の開山として招かれ、
西方寺を真言宗から臨済宗に改めた。

西方寺に移り住んだ覚心は、宋で習った径山寺味噌を製造したが、その折に沈殿する汁が調味料として最適であることを発見した。
これが醤油の起源であるという。

この話は多分に伝説的で、正確な史料があるわけではないが、湯浅が日本で最も古い醤油製造地の一つであることは確かである。

江戸時代になると、湯浅醤油の名声が高まり、販売網も拡大されていった。
湯浅村(現湯浅町)と広村(現広川町)には数十名の醤油生産者がいた。
紀州藩では早くから湯浅醤油に着目し、藩の専売品として御仕入方役所が取り扱った。
これにより、湯浅醤油は藩の保護と統制のもとに発展し、代金不払いの際には藩が徴収し、
各地の御仕入方役所も販路の拡張に尽力した。

享保年間(1716~36)には湯浅組広村の浜口儀兵衛・岩崎重次郎らが、大消費都市である江戸に目を付け、
下総(千葉県)の銚子で醤油を製造するようになった。
こうして湯浅醤油は京都や大坂をはじめ、各地にその名を知られるようになった。

なかでも京都では、文化13年(1816)以降、「他国醤油売問屋」の統制を受けることなく、
紀州の国産醤油として自由に販売できた。
それは、御三家紀州藩の専売品であったたらであるが、それに加えて品質も良かったため、各地に販路を広げ、好評を得た、
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なぜ紀州みかんは、江戸市場をせいしたのか?

紀州みかんは紀伊国屋文左衛門の名とともに有名であるが、その期限につては諸説がある。
一説には永享年間(1429~41)に有田郡糸我壮(現有田市)に橘が自然に生育し、
文正年間(1466~67)に、この種を山田に植え、やがて近郷に広まったという。
慶長6年(1601)の検地帳によると、伊都郡の村々には数本ずつ、
有田郡の村々では十数本から三十数本があったことが知られる。

江戸に初めて出荷したのは寛永11年(1634)に有田郡滝川原村(現有田市)の藤兵衛がみかん400籠を贈ったことに始まる。
当時の江戸には伊豆・駿河・三河・上総からみかんが送られていたが、有田みかんは最も評判が良かった。
それは有田みかんが甘さと酸味を兼ね、色も形も群を抜いていたためであった。

そのため、翌年には2000籠を送り、みかんの栽培は有田郡や海部郡にも広がり、明暦2年(1656)には5万籠、元禄年間(1688~1704)には30万籠、享保年間(1716~36)には50万籠が江戸に送られるまでになった。

江戸への出荷量増加により、販売方法が組織化され、生産地の各村では組株を設け、有田郡河口の北湊に集荷し、ここに藩の蜜柑方会所を置いて統制した。

また、みかんの代金には藩の為替方を通じて蜜柑方に送られ、そこから荷親を通じて生産者に渡された。
このように紀州のみかんは、紀州藩の保護と統制のもとで特権を与えられ、紀州の蜜柑船に他国の船は航路を譲り、荷揚場では紀州家御用の大提灯が立てられていたという。

紀州みかんは、他地方のみかんと比べて品質が良く、美味で有るうえに藩の力を背景に全国的に発展し、
”沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国蜜柑船”とうたわれるまでになった。
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紀州のヒーロー

その他紀州のヒーロー

<坂本冬美>
上富田町出身の演歌歌手。
「あばれ太鼓」「祝い酒」「夜桜お七」「また君に恋してる」などのヒット曲多数。。
NHK紅白歌合戦出場回数は24回を数える。和歌山県ふるさと大使としても活躍しています。

<田中3きょうだい>
和歌山市出身の体操選手。
長男の和仁選手、長女の理恵選手、次男の佑典選手の3人揃って、2012年のロンドン五輪に出場し、
和仁、佑典両選手は団体戦で銀を獲得。


<徳川吉宗>
紀州藩5代藩主、さらに江戸幕府8代将軍を務め、享保の改革を進めたことで知られる。
テレビ時代劇「暴れん坊将軍」のモデルになった。

<溝端淳平>
2006年のジュノン・スーパーボーイ・コンテストでグランプリを獲得し、芸能界入りした橋本市出身の若手俳優。

<小久保裕紀>
福岡ソフトバンクや巨人で活躍し、2012年引退した和歌山市出身の元プロ野球選手。

<たま駅長>
わかやま電?貴志駅の駅長を務める三毛猫。
動物で唯一のトップ10入り。

<紀州レンジャー>
環境保護や物産PRを任務とする和歌山のキャラクター。
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こんな人もいた紀州の偉人たち②

こんな人もいた紀州の偉人たち②

<髙城武夫>(1909~1982)
1959年に私費を投じて和歌山市鷹匠町に県内初のプラネタリウム施設「和歌山天文館」を建設。
苦労を重ね、日本初の本格的オルガンを製造し、その量産化に成功した。
84年の閉館まで15万人を集めたほか、天文教具の開発に尽力した。

<保田龍門>(1891~1965)
東京美術学校在学中に二科展入選。
日本美術の研究所で彫刻を勉強し、のちに欧米に遊学。
和歌山県庁本館や紀陽銀行本店にレリーフが残る。

<河合小梅>(1804~1889)
幕末から明治の社会を日記に綴った女性。

16歳から70年間、生活者の視点で毎日の出来事を書いた。
当時の社会の変化や人々の暮らしを伝える貴重な資料となっている。
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内外合一 活物窮理

紀州人の名言:「内外合一(ないがいごういつ) 活物窮理(かつぶつきゅうり)」

「内外合一」は、病気とは内科的なもと外科的なものが一体となったもので、専門にこだわらず幅広い知識を持たなければ病気を正確に理解できず適切な治療がが出来ないとの青洲の医療観を表す。

また、「活物窮理」は、「昔からの習わしや他人の知識、経験を過信して治療することを厳しく戒め、個性や特質が異なる患者をよく観察し、病気の原因や本質を理解して治療せねばならない」の意味。

技術の進歩で当時に比べ専門性が高まった現役医療において、専門外の病気に対応できなかったり、病気を診て患者を診ない医師が問題視される中、青洲の医療理念は見直されるべき精神だといえる。

<華岡青洲>
紀伊の国平山村(現紀ノ川市)に1760年、医師の息子として誕生。

世界初の全身麻酔による外科手術を成功させた。

23歳で京都に出て麻酔薬を知り、故郷へ戻ってからは家業を継いで治療に当りながら麻酔薬を研究した。

協力を申し出た母と妻で実験し、20年かけて麻酔薬「通仙散」を完成させた。

診療所と学校を兼ねた春林軒で多くの人を救うと共に後進を育てた。

なお、県立医科大学の学章は、通仙散に使用した曼荼羅華(まんだらげ)の花のデザインです。
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是れ此の築堤の工を起こして住民百世の安堵を図る所似なり

紀州人の名言:「是れ此の築堤の工を起こして住民百世の安堵を図る所似なり」

安政大地震(1854年)で愛する故郷の広村(現広川町)が大きな被害を受け、
村人の安全と幸福を永久に守るよう、築堤にかけた決意の言葉。

大地震と津波により、生きる希望を失い、村を出て行こうとする人が続出した。
住民参加の堤防造りは、村人に仕事と生きる力、勇気を与えた。

「作業には子どもからお年寄りまで参加し、住民間の助け合いが生まれた。
津波から逃げる自助、助け合う共助の精神は、現代も堤防中心に行う清掃活動や火祭りなどに受け継がれている」のこと。

<濱口梧陵>
1820年生まれ。
紀伊の国広村出身。
ヤマサ醤油七代目当主で、安政大地震の際に稲わらに火をつけて村人を救った逸話が有名。
被災後は、私財を投げうって湯浅湾に面した海岸線に長さ652メートル、高さ3.4メートルの堤防を造り、昭和南海地震による津波から村を守った。

初代県議会議長、後の郵政大臣に相当する駅逓頭(えきていのかみ)を務めた。

梧陵が建てた私塾「耐久舎」は現在の耐久中高の前身。
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所謂薄志弱行

紀州人の名言:
「人より少し苦労して人より多くの利益を得んとするは、
所謂薄志弱行(いわゆるはくしじゃこう)の徒(いたずら)の所為(しょい)たり」


「此の念一回(ほうき)すれば、必ず生涯不愉快の境遇に陥るべす」と続き、「人より少ない苦労で人より多くの利益を得ようとすることは、意志が弱く行動力が乏しいからである。このような思いが芽生えれば、生涯必ず不愉快な思いをするだろう」との意味。

北京に赴任する外交官の息子に餞別として贈った言葉だ。

「藩士の父、伊達宗広の裕福な家で育ったが、宗広の失脚後、生活が一変する苦境を味わった。そんな中でハングリー精神を持ち、勉学に励み、外務大臣にまで昇り詰める努力をしたから言えた言葉でしょう。

現代でも楽をして金儲けしようとすると失敗することが多い。

強い志と行動力を持ち、努力を重ねてこそ実り多い人生になる、励みの言葉になるのでは」

と思う。

<陸奥宗光>
日本の国際化に貢献した明治時代の外務大臣。
1844年、和歌山市生まれ。
坂本龍馬の海援隊で活躍後、和歌山藩欧州執事として兵制を整備。
外務大臣時代は日英通商航海条約締結で幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功。
日清講和条約の締結、三国干渉の処理と日本の国際化に寄与した。
機敏で辛らつな仕事ぶりから「カミソリ大臣」との異名をもつ。
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こんな人たちもいた紀州の偉人たち①

こんな人たちもいた紀州の偉人たち

<山葉寅楠>(1851~1916)
和歌山市生まれ。
苦労を重ね、日本初の本格的オルガンを製造し、その量産化に成功した。
1889年に日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)を立ち上げた。

<山田猪三郎>(1863~1913)
ノルマントン号事件を機に救命具の研究を始め、その経験を生かし気球製作を始めた。
1910年に国産初の有人飛行船を完成させた。
和歌浦の高津子山に顕彰碑が残る。

<嶋清一(1920~1945)
海草中学(現向陽高校)野球部の名投手。
左腕から繰り出される速球は時速150キロを超えたと言われ、甲子園では5試合完封、準決勝・決勝ではノーヒットノーランを成し遂げた。
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人の交わりにも季節あり

紀州人の名言:「人の交わりにも季節あり」

「熊楠の性格がよく現れた言葉です」

ロンドン留学時代から親交のあった孫文が辛亥革命で中華民国大総統になり、
来日した際、孫文に会いに行かなかったことについて、
1925年の弟子の上松(しげる)宛ての書状に記した。

孫文は熊楠に「知音」(ちいん)と最もわかり合える相手に向ける言葉を贈るほどの仲だった。

「困っているならとかく、本当の友なら相手が偉くなったからと今更会いに行くことはない。

また、年齢を重ねると疎遠にになる人とはなるとの達観、諦念(ていねん)が感じられる。

<南方熊楠>
生物学、民俗学、歴史学など学問の領域を超え知の森を駆けた市井の博物学者。
1867年、和歌山市橋丁(ハシチョウ)で誕生。
ロンドン留学時代にイギリスの科学誌「ネイチャー」に寄稿。
以後、多くの論文が採用された。
帰国後は田辺を拠点に植物や粘菌の研究に没頭した。
1906年に明治政府が打ち出した神社合 政策に反対し、生態系保護、地域生活を守る点から反対運動を展開。
29年には昭和天皇に求められ進講を果たし、粘菌の標本をキャラメル箱に入れ進献した逸話が残る。
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青春は誰にとっても一度しかない

紀州人の名言:「青春は誰にとっても一度しかない」

数多くの名言を残す西本さん。
「努力すれば野球の方から受け止めてくれる。野球は人間の努力や工夫を忠実に反映してくれる」
と地道な努力を重んじた。

今回あげたのは人間味あふれる一面がうかがえる名言。

1973年11月、近鉄バファローズの監督就任時に語った青春論で、この言葉の後には、
「しかも限られた時間しかない。近鉄のユニフォームを着た青春の証として何とか悔いの残らぬよう
努力させてやりたい」と続く。

厳しい勝負師としての顔が強調されるが、選手たちによりよい野球人生を送らせてやりたいと望む
親心がにじんでている。

<西本幸雄>
プロ野球パ・リーグ一筋に生きた大監督。
1920年、和歌山市に生まれ、和歌山中学(現桐蔭高校)に入学し野球部に所属。
伝説の投手、海草中学(現向陽高校)の嶋清一とも対戦した。
毎日オリオンズの選手として活躍し、現役引退後は、阪急ブレーブス、近鉄の監督としてチームを率い、リーグ優勝計8回、監督通算1384勝と歴代6位の成績を残した。

しかし、日本一になれず「悲運の名将」と呼ばれた。
2011年に和歌山市の偉人・先人に選ばれ、2012年は和歌山市で回顧展が開かれた。
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好景気良し、不景気、なお良し

紀州人の名言:「好景気良し、不景気、なお良し」

「好景気ならだれでもそこそこの経営はできる。不景気も見方を変えればチャンスにつながる」
との意味の言葉から、
”経営の神様”の不屈の精神がうかがえる。

数々の名言があるが「これは、どの企業にも当てはまる万国共通の名言」
「経済が冷えた世の中でこそ、企業の原点に立ち返り、何ができるかを考え、態勢を整える機会ととらえることが大事との教えです。

松下電器でも、大きな変革は不景気の時に行われたと言われています。

今年も景気回復は厳しいでしょうが、こんな時こそこの言葉を思い出し、あすを見直すいいチャンスにし、経済の活性化につなげたいですね」

<松下幸之助>
総合家電メーカー松下電器産業(現パナソニック)を一代で築き上げた実業家。
1894年、和歌山市祢宜(ネギ)で生まれた。
父親が米相場に失敗し、同市本町に移った後、9歳で大阪へ丁稚奉公。
経営だけでなく教育、社会福祉、政治などあらゆる分野の発展に尽力し、PHP研究所や松下政経塾を立ち上げ、人材育成に力を注いだ。

出身地区にある高積中学校の校歌の作詞も手がけている。
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紀州人の足跡

紀伊の国は、木材などの山林資源を始め、河川や海からの漁業資源にも恵まれている。

そのため河川を利用した山産物などの物資の輸送、
さらには船舶を利用した各地との交流は古くから盛んで、
江戸時代にはイワシ漁師が瀬戸内や関東地方など他国へ出漁して魚場を開拓し、
また捕鯨のために遠く五島列島まで出向いている。

このほか、箕島浦の商人が黒江で渋地椀や折敷類を仕入れて瀬戸内海から北九州に出向いて販売し、

帰りに有田焼の陶器を仕入れて江戸にて販売するなど、水上交通を巧みに活用した人々によって、各地に紀州人の足跡を残し、それぞれの地域の発展の為に貢献している。
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紀伊の国(木の国・川の国・海の国)その3

紀伊の国はまた、長い海岸線を有するがゆえに、古くから造船や操船の技術に優れ、大陸からの文化を受容するなど海の道を通じて交流してきた。

豊臣秀吉が紀州を平定した意味は、単に大坂に近い足元を固めたというだけでなく、紀州の豊富な木材と、造船能力、操船技術を持つ人員の確保など、
物資の輸送力と海上戦略を掌握するということにあったといえよう。

その結果として、紀州を制圧した後に直ちに四国の長宗我部氏を攻撃して平定し、2年後には九州に軍を進めて島津氏を降伏させ、更にその3年後には小田原の北条氏を滅ぼし、その勢いで東北の伊達氏なども抑えて全国制覇を成し遂げたのである。
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紀伊の国(木の国・川の国・海の国)その2

今日は、紀ノ川の話をします。

紀ノ川は、奈良県の大台ケ原を源として約136キロメートルを流れて紀伊水道に注ぎ、
奈良県内では吉野川、和歌山県内では紀ノ川と呼ばれている。

寛永8年(16319に紀州藩は積み荷や旅客が大和に直行することを禁じ、橋本町(原橋本市)舟改番所を設けて直行便を取り締まった。
そのため、上り荷は橋本で荷揚げして陸路で五条(奈良県)方面に運び、逆に吉野川の下り荷は五条で荷揚げし、橋本で舟に積み込んだ。
これにより、橋本町は物資の集散拠点として繁栄した。

橋本周辺に籍を置く30石積みの船を「川上船」といい、江戸時代には40~60艘の船が運航し、
和歌山から塩・肥料・青物などを、吉野川流域から杉板・樽材・実綿・大豆などを運び、また旅客も運んだとのこと。
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紀伊の国(木の国・川の国・海の国)その1

紀伊の国は、紀伊半島の西部から南東部の海岸にかけて半島の中心部を囲むような形をしている。

その中心部に位置する紀伊山地は、東西の山脈と南北の山脈が合わさった山地で、
これらの山々をぬって紀ノ川、有田川、日高川が西に、富田川、古座川、熊野川が南に向かって流れている。

県域は大きく紀北・紀中・紀南の三地域に分けられ、

  紀北:紀ノ川・有田川流域

  紀中:日高川・南部川流域

  紀南:田辺以南のむろ地域

紀伊の国は、木の国と称されるように、国内の大部分が山林で占められ、山林資源の宝庫である。

山地で伐採された木材は、筏に組まれて、紀ノ川、日高川、熊野川などを利用して河口に集積され、各地に出荷された。


・豊臣秀吉は、大阪城や方広寺大仏殿の建築用材として熊野の木材を切り出させた。
・徳川家康も、江戸城修復に際して慶長九年(1604)に石材を運ぶ船を
 紀州藩主 浅野幸長に命じて造らせ、翌年には木材をも江戸に運ばせている。
・伊達政宗も、松島のズイガン寺を再建するための用材を熊野に求めている。

このように豊富な建築用木材とは別に、山々に自生しているウバメガシやカシを炭窯で焼いて作る
「熊野炭」と呼ばれる木炭は、熊野川を下って新宮まで運ばれて出荷され、江戸でも有名であった。

また、田辺で焼かれた備長炭(白炭)も、ウバメガシを高温で焼いて作られ、硬さと品質の良さ、抜群の燃焼力で好評を得た。
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