懐かしい眺めです。
昔の友達が出てくるようです。
和歌浦は、いいところがたくさんありますね。。。
昔、明光通りの一角に和歌浦口売店がありました。その息子(今はじじ!)の紀州<和歌山>四方山話と還暦過ぎて始めた「もしもドロップショッピング」のぐうたらな噺です。
月別アーカイブ:2013年11月
紀州の風景
<解説>この歌は神亀元年の紀伊国行幸の折に、お供の官人(役人)の一人が詠んだものと推定できます。名草山は和歌の浦になくてはならない山です。和歌の浦の東方に穏やかにゆったりと鎮まっています。上の写真をご覧ください。 名草郡(現和歌山市)を代表する山で、標高二二九メートルと低いですが、付近から独立していますので、目につく存在です。中腹には西国二番札所の紀三井寺があります。ちょうど飛鳥の三輪山に似て、...
紀州の風景
<解説>玉津島山とは、現在の妹背山(いもせやま)・鏡山(かがみやま)・奠供山(てんぐやま)・雲蓋山(うんがいざん)・妙見山(みょうけんざん)・船頭山(せんどうやま)の六つの山々をさします。当時の地形は、今に較べてずっと海が奧に入っていました。ですからこの六つの山は海に囲まれた島々であったのです。上に掲げてあります写真「名草山の頂上から和歌浦を眺める」をご覧ください。手前に見える小山の連なりが、万葉...
紀州の風景
万葉の昔から歌に詠まれ、古来から人々の注目を集めてきた名勝「和歌浦」は、長く伸びた砂洲と浜と海が織りなす景観であった。 そういう地形だと、少し離れて遠くから眺めるのがビューポイント、ということもあり、この周辺では少ない温泉が出たのを奇貨として、その北側の山のわずかな斜面に沿って、新和歌浦という旅館やホテルが建ち並ぶ観光地がでてきます。 和歌浦は、おそらく日本中の観光地が等しく辿るであろう、一時の隆...
紀州の風景
<和歌浦の干潟の向こうに名草山を見る>23歳の若さで即位した聖武天皇や「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」と詠んだ山部赤人そして万葉の人々が憧れた和歌の浦。 今も干潟には白鷺が飛び交いカニがたわむれ、万葉びとが愛した名草山は、海面にゆらゆらと優しい姿を映しています。妹背山からは万葉集に詠われた片男波の景色を気軽に楽しんで頂けます。...
紀州の風景
聖武天皇を継いだ称徳天皇行幸のとき、奠供山南麓に行宮「望海楼」であるが、明治時代後期に旅館「望海楼」がその地の建設された。そこには明治43年客引きのために日本で最初の鉄骨製エレベーターが建設されている。高さ約30mであった。今では景観問題でとても建設できないであろうが・・・ 明治44年、和歌山での講演のため夏目漱石が来和、和歌浦「望海楼」に宿泊して句を詠み、このエレベーターに乗り、その著書『行人...
紀州の風景
和歌浦東側の入り江近くに架かるアーチ型の石橋「不老橋」は、片男波の松原にあった東照宮御旅所の移築に際し、嘉永4年(1851)紀州徳川家10代藩主・治宝(はるとみ)の命によって架けられた。この橋は家康を祀る東照宮の例大祭・和歌祭の時に、徳川家や東照宮の人びとが御旅所に向かうための「御成り橋」として使用された。...
紀州の風景
奠供山周辺はその後妹背山を除いて陸化してしまったが、聖武天皇が奠供山山頂から臨まれた和歌浦一体は今とは異なる景観だったであろうことが想像できる。付近にはいにしえ、玉津島と呼ばれる小嶋が連なり、片男波と呼ばれる干潟ももっと広くて入江奥深くまで入り組んでいたことと推測できる。...
紀州の風景
聖武天皇は和歌浦の景観に感動し、明光浦(あかのうら)と名付け、さらにこの地の景観を守るため守戸を置くことを命じたのことである。『紀伊続風土記』では「神亀元年御幸の時、登山望海此間最好と、詔し給ふは即此山なり」として、奠供山(テングヤマ)を詔が発せられた場所であるとされている。...
ゆるキャラ
まつりん&ぼっくりん体操 煙樹ヶ浜松林イメージキャラクター『まつりん&ぼっくりん』を活用し、美浜町をアピールしながら健康づくりをしたいと考え、包括支援センターで『まつりん&ぼっくりん体操』をつくりました。 元気いっぱい笑顔あふれる美浜町の輪を広げていくために、この体操を地域に広めていきたいと思いますので、ご協力よろしくお願いします!!とのことです。...
ゆるキャラ
《所属:(社)龍神観光協会》 5歳の着ぐるみを着た男の子で、手のひらにはなぜか肉球がある。玉の代わりに持っている柚子をさわると、願い事がかなうらしいと云われています。龍神村の魅力をどんどんPRしていきます!...
ゆるキャラ
《所属:和歌山県 美浜町》 煙樹ヶ浜の背後にある約5万本の松林をイメージしたキャラクター「まつりん&ぼっくりん」各地イベントに参加し美浜町の魅力を伝えるためPR活動に励んでいるよ。よろしくねっ♪...