2014年02月の記事一覧

月別アーカイブ:2014年02月

2014年02月の記事一覧。昔、明光通りの一角に和歌浦口売店がありました。その息子(今はじじ!)の紀州<和歌山>四方山話と還暦過ぎて始めた「もしもドロップショッピング」のぐうたらな噺です。

紀州の風景
昔は、海水浴も出来たところですね。。。...

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紀州の風景
相変わらず綺麗ですね、思わずカメラに収めました。...

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紀州の風景
名草山方面の眺めです。。。...

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また、行ってみたいですね。。。...

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紀州の風景
和歌山市北部方面を眺める。。。...

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紀州の風景
マリーナシティ方面がよく見える。。。...

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紀州の風景
暖かかったから靄ってました。。。...

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紀州の風景
ちょっと登っただけで結構見晴らしがいいです。。。...

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ミカン畑の中を登ります...

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紀州の風景
名草山:西国二番札所がある紀三井寺の山です。      お寺と反対側の広原から登りました。           標高は228mと低い山ですが和歌浦方面の眺望はもとより和歌山市内が一望できます。               年輪を感じる竹林です。。。...

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紀州の風景
名草山:西国二番札所がある紀三井寺の山です。    お寺と反対側の広原から登りました。           標高は228mと低い山ですが和歌浦方面の眺望はもとより和歌山市内が一望できます。懐かしい崇敬ですね。。。...

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紀州の風景
片男波、和歌浦方面の眺め名草山:西国二番札所がある紀三井寺の山です。    お寺と反対側の広原から登りました。    標高は228mと低い山ですが和歌浦方面の眺望はもとより和歌山市内が一望できます。...

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紀州の風景
名草山:西国二番札所がある紀三井寺の山です。    お寺と反対側の広原から登りました。    標高は228mと低い山ですが和歌浦方面の眺望はもとより和歌山市内が一望できます。...

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紀州の風景
名草山の頂上から和歌浦を眺める。 神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の... 紀伊万葉 和歌浦(1) 綺麗ですね。。。...

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紀州の風景
南海和歌山市駅の裏にある堤防から見た夕日です。かつての住友金属、現在の新日鐵住金和歌山製鉄所のシルエットが夕日に照らされて浮かび上がります。昔から見慣れた風景ですが、夕日の時刻は穏やかな流れの紀の川に工場の影が映り込み、この瞬間を見るとなぜかノスタルジックな思いに駆られます。長年、和歌山市を支えてきた製鉄所と悠久の川、紀の川。いつまでも心に留めておきたい郷土のワンシーンです。...

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紀州の風景
かつては要塞の島で、レンガ造りの砲台跡はレトロな歴史遺産として人気がある友ヶ島。世界中の飛行機が上を通過し、巨大な船がゆっくりと海峡を通り抜ける。夜は満点の星が輝き、まるで宇宙にいるよう。温暖な気候と黒潮の影響を受け、ハマゴウやイワタイゲキなど珍しい植物が育ちます。ヤブツバキの咲く頃は見事な花の道ができ、リスたちもにぎやか。いつまでも自然豊かなこの景色が保たれることを願います。...

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紀州の風景
 江戸時代から紀州漆器の町として栄えた海南市黒江。路地裏に一歩入ると、のこぎりの歯状に並ぶれんじ格子の町家が所々に見受けられます。黒江で生まれ、漆器に75年間携わってきた私には思いの深い場所です。最近は、老朽化で取り壊されたり、後継者が育たず空き家になったりと町並みが変化してきました。自然の風景とは異なり、人為的な景色はそこに住む人々が意志を持って守っていきたいですね。...

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紀州の風景
新和歌浦にある温泉旅館、萬波下の遊歩道から見た景色です。昼間見ると何てことはない岩のように見えますが、早朝は岩穴から朝日が差し込み、ユニークなシルエットが浮かび上がります。観光客や学生らよじ登る人が多いので、岩の形が変わっていかないか心配です。遠くまで行かなくても、和歌山市内にもこのような景勝地がある。もっと関心をもち、大切にして後世に残していきたいですね。...

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紀州の風景
和歌山市のベッドタウンとして、大きく発展が約束されている東部地区——。その鳴神地区に温泉が掘り当てられたというビッグニュースが、和歌山市民の話題をさらっている。すでに観光業者が動き出し、付近の地価も値上がりをはじめたといううわさもあり、てんやわんやの〝温泉騒動〟が展開されている。泉質は有馬温泉級とも言われ、温泉がないことが観光面で致命的欠陥だった和歌山市にとって、これまでにない大きな観光資源になると...

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紀州の風景
伝統の新和歌浦旅館組合と新進の奥新和歌浦旅館組合が合併、「和歌の浦観光旅館組合」として新発足。新和歌浦はサービスが悪く高いとの悪評を全国に売ったことが災いし、斜陽化の声すらあった。奥新和歌浦にはデラックスな大型旅館が建ち、新和歌浦と匹敵する観光地にのしあがった。ところが新和歌浦、奥新和歌浦と旅館組合が別れ、紛らわしいとの声があった。待望の大同団結だ。          (1965/6/20)記事は新...

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紀州人
 「5年後、生きている確率は10%あるかないか。骨髄移植が成功しても20〜30%」。25歳の時に白血病を患い、医師から重い宣告を受けた上前喜彦さん(43)は、生まれ育った有田川町で無添加食品販売業を営む傍ら、生死の境をさまよった経験や病気から学んだことを、小中学校や地域の会合などで講演する。「病気の前と後で考え方が変わった。病気は不幸なことではない。そこから何を感じるか」。大病の向こう側にたどり着いた今、思...

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紀州人
 肺ガンになった夫の最期を自宅で看取った海南市の岩崎順子さん(53)は、家族で支え合い、命そのものと対話してきたその時の経験をもとに全国で講演を重ねる。回数は660回を超え、近年、認知症や子どもの生きる力、紀南水害の被災地との関わりと内容は広がるが、聞く人が自らの命を新しい気持ちで生き始めてほしい、との願いを常に込める。「生きるのが下手な私だから話せることがあると思います。みなさんの次の一歩につながれ...

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紀州人
 2010年は有間皇子、11、12年は小栗判官、そして今年は井澤弥惣兵衛。和歌山、特に海南に関連のある歴史上あるいは伝説の人物を若い世代に伝えようと、ミュージカルで発信するのが劇団KCM(海南市民ミュージカル)だ。 脚本を書くのは、歴史の語り部としても活動する東道(あずまみち)代表(72)。「『地元に住んでいながら、作品を見て初めて知った人物でした』と話す人は多い。取り上げる人物は違っても、〝人はいかに生き...

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名草山


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和歌山港



昔は、海水浴も出来たところですね。。。
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片男波



相変わらず綺麗ですね、思わずカメラに収めました。
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和歌浦小学校からの道。。。



懐かしいですね。。。
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高津子山展望台から



名草山方面の眺めです。。。
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名草山ハイキングコース




また、行ってみたいですね。。。
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名草山より(その11)



和歌山市北部方面を眺める。。。
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名草山より(その10)



マリーナシティ方面がよく見える。。。
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名草山より(その9)



和歌浦方面です。
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名草山より(その8)



布引方面です
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名草山より(その7)

暖かかったから靄ってました。。。


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名草山より(その6)

ちょっと登っただけで結構見晴らしがいいです。。。


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名草山より(「その5)

ミカン畑の中を登ります


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名草山より(その4)

名草山:西国二番札所がある紀三井寺の山です。

      お寺と反対側の広原から登りました。
          標高は228mと低い山ですが和歌浦方面の眺望はもとより和歌山市内が一望できます。

               年輪を感じる竹林です。。。

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名草山より(その3)

名草山:西国二番札所がある紀三井寺の山です。

    お寺と反対側の広原から登りました。

          標高は228mと低い山ですが和歌浦方面の眺望はもとより和歌山市内が一望できます。



懐かしい崇敬ですね。。。
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名草山より(その2)

片男波、和歌浦方面の眺め


名草山:西国二番札所がある紀三井寺の山です。

    お寺と反対側の広原から登りました。

    標高は228mと低い山ですが和歌浦方面の眺望はもとより和歌山市内が一望できます。
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名草山より(その1)



名草山:西国二番札所がある紀三井寺の山です。

    お寺と反対側の広原から登りました。
    標高は228mと低い山ですが和歌浦方面の眺望はもとより和歌山市内が一望できます。
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名草山の頂上から和歌浦を眺める



名草山の頂上から和歌浦を眺める。 神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の... 紀伊万葉 和歌浦(1)

綺麗ですね。。。
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④製鉄所と紀の川の夕日



南海和歌山市駅の裏にある堤防から見た夕日です。

かつての住友金属、現在の新日鐵住金和歌山製鉄所のシルエットが夕日に照らされて浮かび上がります。

昔から見慣れた風景ですが、夕日の時刻は穏やかな流れの紀の川に工場の影が映り込み、この瞬間を見るとなぜかノスタルジックな思いに駆られます。

長年、和歌山市を支えてきた製鉄所と悠久の川、紀の川。いつまでも心に留めておきたい郷土のワンシーンです
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③友ヶ島



かつては要塞の島で、レンガ造りの砲台跡はレトロな歴史遺産として人気がある友ヶ島。

世界中の飛行機が上を通過し、巨大な船がゆっくりと海峡を通り抜ける。夜は満点の星が輝き、まるで宇宙にいるよう。

温暖な気候と黒潮の影響を受け、ハマゴウやイワタイゲキなど珍しい植物が育ちます。

ヤブツバキの咲く頃は見事な花の道ができ、リスたちもにぎやか。

いつまでも自然豊かなこの景色が保たれることを願います。
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②黒江の町並み



 江戸時代から紀州漆器の町として栄えた海南市黒江。路地裏に一歩入ると、のこぎりの歯状に並ぶれんじ格子の町家が所々に見受けられます。

黒江で生まれ、漆器に75年間携わってきた私には思いの深い場所です。

最近は、老朽化で取り壊されたり、後継者が育たず空き家になったりと町並みが変化してきました。

自然の風景とは異なり、人為的な景色はそこに住む人々が意志を持って守っていきたいですね。
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①和歌浦の蓬莱岩



新和歌浦にある温泉旅館、萬波下の遊歩道から見た景色です。

昼間見ると何てことはない岩のように見えますが、早朝は岩穴から朝日が差し込み、ユニークなシルエットが浮かび上がります。

観光客や学生らよじ登る人が多いので、岩の形が変わっていかないか心配です。遠くまで行かなくても、和歌山市内にもこのような景勝地がある。

もっと関心をもち、大切にして後世に残していきたいですね。
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温泉湧く 脚光浴びる鳴神地区「和歌山市の新名所に期待」


和歌山市のベッドタウンとして、大きく発展が約束されている東部地区——。その鳴神地区に温泉が掘り当てられたというビッグニュースが、和歌山市民の話題をさらっている。すでに観光業者が動き出し、付近の地価も値上がりをはじめたといううわさもあり、てんやわんやの〝温泉騒動〟が展開されている。泉質は有馬温泉級とも言われ、温泉がないことが観光面で致命的欠陥だった和歌山市にとって、これまでにない大きな観光資源になると期待される。(1966/11/27)

市街地にありながら天然の炭酸鉄泉が楽しめると人気の花山温泉(和歌山市鳴神)。紙面では、市内に初となる温泉が湧いたニュースを伝えている。源泉を掘り当てたのは、中村化学工業(現在の新中村化学工業)の社長、中村彌次郎さんだ。
 自然豊かな環境を求めて彌次郎社長が自宅を鳴神地区に新築する際、地質調査をしたのがきっかけ。和歌山インターチェンジがまだ完成しておらず、周辺は田んぼが並び、鳴神貝塚や古墳群が連なるのどかな土地だった。

地下500メートルに源泉

 当初は3ヵ所を調べる予定だったが、1ヵ所目で見事に成功。500メートル掘った時点で泉脈の中心に達し、記事には「地下がほとんど岩盤で、ボーリングは1日に2、3メートルしか進まないという難工事だった」と苦労の様子が記されている。
 地域の発展に役立てようと、2年後の1968年に「花山温泉会館」がオープン。開業時のパンフレットでは「和歌山市に新名所ができました」とうたっている。彌次郎さんの孫に当たり、現在温泉を運営する花山開発の中村源吾社長は「夕方になるとなじみの顔がそろい、洗面器を持って集まっていたのを思い出します。今のように機械の温度調整ではなかったので、浴場からフロントに『もう少し熱くしてくれ』と叫んでいる人もいました」、当時を知る中村明子専務は「市内初の温泉施設ということで、『白浜まで行かんでよくなった』と喜ばれました。皆さん茶褐色の湯の色に最初は驚いていましたね」。
 73年に宿泊施設を増築後、74年に県内初の高速道路が開通。和歌山インターチェンジができ、宮街道が完成するなどの道路整備が弾みとなり、湯の人気が広まるとともに県外、特に泉南市方面からの客が増えた。
 源泉の温度は26・5度。現在も当時掘った深さ500メートルの源泉から1分間に124リットルが湧き出ている。開業時の浴場は現在の3分の2ほどの広さで、創業25周年を迎えた93年、現在の新浴場にリニューアルした。
変わらぬ交流の場

 「気持ちええわ」「体が楽になる」と朝から夜まで憩いの場としてにぎわう姿は今も変わらない。中村社長は「『自然のものを扱っているので大切に』との先代の教えを守ってきた。銭湯が町から姿を消す中、ここで出会ったお客さん同士が友人になったり、カラオケや食事を皆で楽しんだりと、今も昔も変わらず交流の場になっているようですね」と目を細めている。
写真上から=宿泊施設増築後の花山温泉会館、リニューアル前の旧浴場
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老舗新和歌浦と奥新和歌浦が握手「[ 巻き返し図った旅館組合」


伝統の新和歌浦旅館組合と新進の奥新和歌浦旅館組合が合併、「和歌の浦観光旅館組合」として新発足。新和歌浦はサービスが悪く高いとの悪評を全国に売ったことが災いし、斜陽化の声すらあった。奥新和歌浦にはデラックスな大型旅館が建ち、新和歌浦と匹敵する観光地にのしあがった。ところが新和歌浦、奥新和歌浦と旅館組合が別れ、紛らわしいとの声があった。待望の大同団結だ。          (1965/6/20)

記事は新和歌浦と奥新和歌浦(田野、雑賀崎)の旅館組合が和歌の浦観光旅館組合として合併した動きを伝えた。この合併の当事者で、記事後半に奥新和歌浦旅館組合長として名前がある坂口邦三さん(89、写真右下)は元県観光連盟副会長で、現在はシーサイド観潮顧問。半世紀以上、 和歌浦と向き合ってきた旅館業の草分け的存在だ。当時、そして今を語ってもらった。

絶景に客が大幅増

 新和歌浦で旅館東邦荘を営んでいた父、房吉さんの勧めで1950年、坂口さんは田野でキャンプ村を開設した。
 「当時は水道、ガス、電気も通じず、道も整っていなかったですよ」。その後、続いて「観潮遊園」をオープンした。浪早崎の散策と食事が楽しめる施設で、南海電鉄と路面電車の和歌山電気軌道と連携し、順調に客を伸ばした。
 妻の父、土山良雄さんの支えもあり、昭和30年代中ごろ、田野、雑賀崎で初めて旅館経営に踏み切り、旅館観潮を始めた。新和歌浦と対抗するため、太公望ら数軒と「奥新和歌浦」を名乗りPRした。道路整備が進むにつれ、京阪神からバスで直接乗り入れる客が爆発的に増えた。
 「昭和37年の天皇陛下の行幸前に道路の拡幅、整備が進んだのが大きかった。また、老舗の多い新和歌浦と違い、こちらは素人だったが、プールなど新しいものを取り入れ、しかも安かった」
 人を引きつけたのはバスから望める海辺の風景だ。「戦時中、要塞だった友ヶ島に連なる紀伊水道は、軍が写真撮影を許さなかった。その美しさが知れ渡ったんです」
 本紙記事では「新和歌浦は全国一サービスが悪く、全国一高いとの悪評が広がっていた」とある。しかも紀勢線開通で白浜、那智勝浦に観光客が流れ始めていた。坂口さんは「実はラジオに投書があり、悪評が広がった。風評です。新和歌浦と奥新和歌浦は色合いが違っていたが、父の旅館が新和歌浦にあり、パイプはあった。力を合わせ巻き返しを図りました」
 その後も連休前などは全旅館が満室になるほど活況を呈したが、71年の黒潮国体以降、和歌浦は苦境に立つ。「市街地にホテル建設が進み、利用者が減った。また国立公園、風致地区などの規制が強くなり、旅館の開設や増改築が自由にできなくなったことも響いた」と振り返る。


次世代へ思い託す

 記事が書かれた65年の当時は24軒あった旅館も今は8軒。「ここまで廃れるとは…」とため息がまじる。
 ただ坂口さんが道筋を付けた観潮、萬波は今も〝和歌浦栄えし頃〟の火を守っている。「海があり、景色が素晴らしい和歌浦が栄えないのは嘘だと今でも思う」
 坂口さんは和歌浦をなんとかしたいとの思いを現在、執筆中の自叙伝に込める。「魚市場、明光通り、本当に賑やかだった。和歌浦今昔を書き残し、次の世代に託したい」と力強い。   
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白血病を乗り越えて

 「5年後、生きている確率は10%あるかないか。骨髄移植が成功しても20〜30%」。25歳の時に白血病を患い、医師から重い宣告を受けた上前喜彦さん(43)は、生まれ育った有田川町で無添加食品販売業を営む傍ら、生死の境をさまよった経験や病気から学んだことを、小中学校や地域の会合などで講演する。「病気の前と後で考え方が変わった。病気は不幸なことではない。そこから何を感じるか」。大病の向こう側にたどり着いた今、思うことを自然体で伝える。
 
病気からのメッセージ

 結婚し、子どもが誕生した25歳の時だった。朝起きづらく、微熱があり、体がだるい。そんな状態が数ヵ月続いた。ある日、実家でみかんの収穫を手伝っている最中、節々の痛みに襲われた。血液検査で異常はなかったが、骨髄液の検査を受けると即入院と告げられた。白血病だった。

 抗がん剤治療が始まった。治療の度に高熱が出る。口の中全体に口内炎ができ、つばを飲み込むだけで脳まで響くほどの痛さに襲われた。そんな苦しい治療を半年で5回受けた。血液中のがん細胞をある程度まで減らした後、骨髄移植へ。幸い、妹の白血球の型が一致した。1年の入院生活、4ヵ月の自宅療養後、がん細胞は消えた。

 再発させないため、主治医に発病の原因を聞いた。「事故に遭ったようなものと思ってほしい」と言われたが、納得できない。しかし、ぼんやり感じていたことがあった。病気からのメッセージだ。

 それまでは自由に生きていた。「入院中も痛い治療には痛い、まずい薬はまずいとはっきり言った。わがままだった。病院のブラックリストに載っていたと思います」。そんな自分を方向転換してくれるための病気だと考えた。

 「同じ生き方を続ければ再発する」。変えたのは難しいことではない。目の前の人の気分が良くなる表情をする、にこやかにあいさつする、頼まれたことを素直にする──。重ねた100回以上の講演では、病気に教わったことを素直に語る。「白血病のおかげでいろんなことを知った。優しくなれたし、いろんな人に出会えた」。話の間にピアノの弾き語りで『イマジン』『見上げてごらん夜の星を』などを披露する独自のスタイルだ。

 「すごい苦労を乗り越えて…と思われると違うんです」と笑う。「苦しいものに立ち向かった感覚ではない。それより新しい価値に出合えた喜びが勝ったんです」。講演は闘病中のことにもふれるが、決して重くない。自然体のたたずまいそのものがメッセージなのかもしれない。
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新しく一歩踏み出す力に

 肺ガンになった夫の最期を自宅で看取った海南市の岩崎順子さん(53)は、家族で支え合い、命そのものと対話してきたその時の経験をもとに全国で講演を重ねる。回数は660回を超え、近年、認知症や子どもの生きる力、紀南水害の被災地との関わりと内容は広がるが、聞く人が自らの命を新しい気持ちで生き始めてほしい、との願いを常に込める。「生きるのが下手な私だから話せることがあると思います。みなさんの次の一歩につながれば」
 
痛み悲しみ、もう一つの面を

 肺ガンと分かった夫の圭介さんは抗ガン剤を使わず、自宅での生活を選んだ。夫の衰弱は進み、行き場のない状況の中、前向きに生きたが、1995年秋、夫は旅立った。

 「よく頑張ったね、とさわってあげて」。シクシクと泣く3人の子どもを呼び、父に触れさせた。手や額に触れ、「つめたい」と子どもたち。そのうち、お腹だけが温かいのに気付いた。「おなか、ぬくいよう」と言う子どもの声に自然に言葉が出た。「お父さんの上で遊びなあ」。その声で3人は泣き笑いしながら、父の上に馬乗りになり、横に寝転び遊んだ。悲しみが形を変えていくのを感じた。

 数年後、紀の川市の「生と死を語る会」で、この時の経験を話した。ある人が講演を記録し、冊子『ガンが病気じゃなくなったとき』にまとめた。注目を集め、発行は7000部を超え、2005年には書籍として出版。講演に招かれる機会が増えた。奈良の東大寺で自らの経験を語り、全国から声がかかり始めた。

 最近は、水害で大きな被害を受けた那智勝浦町の市野々小学校へ、東日本大震災で被災した石巻市の仮設住宅に暮らす人たちが集めてくれた募金を届けた経験を伝える。募金箱には石巻の小学生の手紙があった。「みなさん、学校が使えなくなり悲しいと思います。私は悲しかった。そのため募金します」。悲しいから、辛いから何かしてくれ、ではなく、だからこそ相手を思いやる。その心にうたれた。「痛みを知る人は人の心に寄り添える。やさしさは悲しみから生まれます」。人が避けたがる痛み、悲しみのもう一つの面を照らす。

 講演では原稿を用意せず、締めの言葉も決めない。「その場でみなさんのお顔を見て自然に出る言葉を選びます」。最後に小さい鉄琴を奏で、この世であと4分だけ母親と話すのを許されたらと想定し、来場者に心で母親と言葉を交わしてもらう。それぞれが命と向き合う瞬間をつくる。

 「心に残ったことを育んでほしい」。小さくてもいい。「新しいことを始めました」。講演を聞いた人からのそんな知らせが最高にうれしい。
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地元の歴史 ミュージカルに

 2010年は有間皇子、11、12年は小栗判官、そして今年は井澤弥惣兵衛。和歌山、特に海南に関連のある歴史上あるいは伝説の人物を若い世代に伝えようと、ミュージカルで発信するのが劇団KCM(海南市民ミュージカル)だ。

脚本を書くのは、歴史の語り部としても活動する東道(あずまみち)代表(72)。「『地元に住んでいながら、作品を見て初めて知った人物でした』と話す人は多い。取り上げる人物は違っても、〝人はいかに生きるべきか〟と込める思いは共通です」
 
平和、命、そして愛

 1980年代、海南市と和歌山市で郷土紙や季刊誌の編集、発行を行った。その季刊誌に県内の観光地と歴史を紹介するコーナーがあった。取材を進めるうち、和歌山の歴史の奥深さに魅了された。94年から15年間、近畿全域の歴史をめぐる教室で講師をし、今も熊野・高野国際語り部の会代表を務め、毎月1回、会員と熊野古道を歩く。

 一方、元々は〝見る派〟だったミュージカルに2001年、本格的に携わった。高齢者の生きがいや居場所づくりに取り組むアリスの会を立ち上げ、自ら脚本を担当し、『有間皇子』を公演した。謀反の罪を着せられ、藤白坂で処刑された有間を描いた舞台は、昼と夜の公演で計800人を動員。ミュージカルが持つ伝える力の大きさを肌で感じた。

 『有間皇子』は07年に発足させたきのくにミュージカルでも3年連続で公演。KCM初年度の10年にも行った。翌年からは5大説教節の一つで熊野古道にまつわる小栗判官を取り上げた。そして11月24日(日)に海南市民交流センターで開く公演でスポットを当てるのが紀州土木工法の始祖、井澤弥惣兵衛だ。

 民が犠牲になるのを避けるため、戦ではなく自らの死を選んだ有間。死の淵にありながら、現世に帰ってきた小栗。飢きんで餓死する者が増える中、農地と水路の開拓に尽力した井澤。「生き様は違うが、自分の命を最後まで燃やした点は同じなんです」と語る。

 『有間皇子』に出演した高校生が公演後にもらした「自分のような役に立たない人間が生きていていいのかと思っていた。でも、生きていて良かった」──。この言葉が今も忘れられない。「特に若い頃は、生きる目的や意味が分からなくなることがある。私が作品に込めるのは平和、命、そして愛のメッセージ。人生で迷ったときに、私たちのミュージカルを思い出してほしい」。先人の命の輝きが道標になればと願う。
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